パラグアイ日本人移住70周年記念祭典
既に70周年の記念式典が行われることは紹介しましたが、其の為の寄付金のお願いが私どもにあり記念事業にお役に立てればと思い些少ですが寄付させていただきました。記念事業の招待状をいただきましたので謹んでご紹介させていただきます。
案内の封筒
パラグアイ日本人移住70周年記念祭典のご案内(招待状)
パラグアイ日本人移住70周年記念祭典趣意書
月別アーカイブ: 8月 2006
フロント社員(内山田ホテル)ご家族の悲しい知らせ
悲しい知らせ
7月30日(日曜日)朝知らされたことですが、本館フロントのRossanaさんのお父さん (57歳)が亡くなられたと知らされました(ピストルによって自ら命を絶たれました)彼女のお姉さんが病気で亡くなってまだ一月も経ていません。それ前にはAgedaさんの姪が若くして病気で亡くなりました。Antoniaさんは厨房で7年間働いていた中堅ですが自らの意思で子供二人を母親に預け、ヨーロッパに出稼ぎに行くといってホテルの仕事を辞め、渡欧したのですが書類に問題があった様で入国できずパラグアイに戻らざるを得なく、ホテルのご主人のはからいにも(もう一度ホテルで働く)応ぜず姿を消されているというし、ウエイトレスのMariaさんは胃が悪くてかれこれ1週間休んでいますがこの影響で土曜日のレストランは客も多くてんてこ舞いでした。私の部屋へFlanciscaおばさんが掃除に来た時この話をしましたら、今までにない口調で彼女は「Antoniaについてもホテルのご主人がどのくらい思い留まる様に説得したことか。私はかれこれ20年お世話になっているがどのくらい面倒を見てもらっているかわからない。ご主人は面倒見の良い方でお金が緊急に必要になれば用立ててもらったし、子供の成長には折りに触れてお世話になっています。Antoniaも辛抱が足りない。結局若い彼女は忠告も聞かず辞めてしまったし、その後ご主人がもう一度働いたらという呼びかけにも姿も現さない…。私も母が92歳で寝たきりで面倒を見ているが、ホテルの仕事で早朝から起きて働かなくてはいけない。私だって時には身体を休めたいが、息子二人はちっとも手伝うこともしないし、遅く帰宅するし、今の若者は駄目だ。」という趣旨のことをひとしきりまくしあげて行かれました。皆悩みを抱えて生きています。語学も最初はめでたい言葉ばかり覚えていましたが、Mis pesame para usted.(お悔やみ申し上げます)という言葉もお伝えする必要があります。アパートに一人で住んでいればこのような話や言葉は聞くこともなければ、言うこともありませんが、二十数名が働いているホテルでお世話になっていれば様々な事象に遭遇します。(多少言葉を理解する私にみなさんそれとなく打ち明けてくれるのです)
パラグアイの踊り
パラグアイの踊り
Paloma通り、観光庁観光開発局の建物前では、週末土曜日午前中は催しが行われ観光客を楽しませています。人口570万人の国ですから、何事においても日本と比較したらそれは小規模であります。今回は大人~幼年まで踊りが披露され、ペルーからきた「INKA」(本当はINCAが正しいスペルです)というグループの演奏と歌で締めくくられました。踊りはElencos de Danza de La Municipalidad de SAN LORENZOの皆さんです。写真から寒波のため観客がしっかり着込んでいる様子がわかります。木曜日(7月20日)の日中35℃あった気温がこの日(土曜日)17℃に下がったためです。(日曜日は7℃まで更に下がり毛糸の帽子、マフラー、手袋をしている人をたくさん見かけました。(私もセーター、フリースのジヤケットをしっかり着込みました。)
写真を紹介します。
*** 大人のグループ***
*** 青年グループ(1)***
*** 青年グループ(2)***
*** 少女***
*** 少女・少年***
*** 幼年グループ***
*** バンドネオンを演奏する老人***
*** ペルーの音楽グループ***
Naylamp INKA (ニャイランプ インカ)
Grupo Internacional PERUANO
*** 観客目当てのポップコーン、飲み物露店***